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2017-01-26

武蔵野美術大学卒業・修了制作展示

この時期がやってきましたネ☆

どうもTetsuです。

今回は、武蔵野美術大学の卒業制作、

修了制作展示を見行って来ました。

時間がいくらあっても足りないので、

とりあえず、目に留まった作品だけ、

写真撮影してきました。

 

武蔵野美術大学 展示の外観

いやー。
さすがに全部見るのは中々簡単じゃないですね。
そして、結構疲れる。

学生の自由な発想で、色んな作品がありました。
空間系やデザイン系の作品は僕の写真では少ないです。

理由は色々ですが、デザイン系と空間系は、
写真に撮るのも、表現するのも非常に難しいです。

何より、もともとの条件に対して、どのように魅せるか?
ココの点も重要なポイントになるので、
あまり紹介しても意味がないという事実もあるからです。

 

武蔵野美術大学の卒業制作と修了制作展示は、
大学のキャンパス全体を使って展示をしています。
図書館や、美術館、教室にゴミ置き場まで、
何でもありです。

 

実際にゴミ置き場の狭苦しい空間を
ラブホテルのアンダーグラウンド感として、
表現した展示もありました。

自由な発想と表現をしっかり受け入れる大学側も、
芸術を取り扱う上でポリシーとして持っているということを、
感じる場面でした。

 

修了制作:記憶に残った2作品

 

6枚のパネルからなる、この作品は、
小野明日香さん《Never forget》
雲肌麻紙、岩絵の具、水干絵具、墨

瞬間的に、時間、とりわけ記憶について
描かれた作品だとわかりました。

あまり向き合う時間がなかったので、
作品の主観的な感覚はあまり覚えていません。

ただこういう表現というか、
時間について向けられた問いに対して、
敏感な自分が居るんです。

岩絵の具はやはり、乾きの遅さから、
時間の問題を感じやすいです。
現代の作家が描くときは、
それをとにかく敏感に感じます。

分析的に観るなら…
波打つ黒の波としても見えるし、
白の連絡としても見えます。
断続的に動く白と、
黒とのせめぎ合い。

黒の表面に後退する白の奥行き。

多分技法だと思うんですが、
この黒が独特の光の差し込み方をするんです。

光を反射する絵の具の上に、
反射しない絵具なのか、墨なのか、
とにかく光をコントロールして、
特定の角度だけ照りが出るように、
描かれた黒に奥ゆかしさを感じましたね。

この作品はかなり奥深い洞察が、
できるとおもいますが、
作家さんとお話ししていないので、
辞めときます。
言いたいくなることは、
山ほどありますけれども…(;^ω^)

 

 

《実像》稲葉庸介さん?
ごめんなさい。
正直なんとなく見ていたので、
誰の何だったかわかりません。

地図と記憶と、タイトルからこれだと思います。

鏡をうまく使ったインスタレーション作品ですが、
とにかく自分が映り込む。
どこを見ても、自分が映り込む。

これを観た瞬間に思い付いたのが、
ベラスケスの《侍女たち》です。
ここでベラスケスの話をするつもりはありません。
でも、作品に向ける視覚を複数的に目の当たりにする、
この表現は、共通するものがあると思います。

私たちは作品という窓に向かって自己と対面する。
その対面する窓の向こう側の自己に対して、
解釈や意味の生成を行う。

しかし、意味の生成の視覚それ自身を直接的に、
自己に向けた時、意味や解釈が仮象であることに気付く。
だから鏡は一つでない。
そこには仮初の自己が映り込み、
実体としての僕たちは、映り込む画面よりも手前にある。
作品への主体的参加なくして、
あるいは、作品の経験化なくして、
作品の実像は浮かび上がらない。
そんな感じがパッと見感じられました。

↑超ぉ適当なので、間違っているかもしれません。

稲葉さん?の作品は、
フーコーの『言葉と物』を思い出しますね。

 

卒業制作:記憶に残った1作品

直接話した学部生です。
色んな紹介の仕方があると思いますけど、
あえて、作家さんが語った以上のことを、
僕が書きます。

創作に対するアプローチから、
僕が感じたことを書いてみます。

キノシタユウジさんの作品たち


綺麗な写真が少なくて、申し訳ないですが、
キノシタさんとは話すことができました。
彼が行っているのは、

自身の手を使った表現法です。

展示室に入ると、繰り返される”手”が、
頭に焼き付きます。
その手に、強い意志を感じ、
丁寧に観れば観るほど、
そこにこだわりを感じる”手”のカタチなんです。

僕は気になって、

「手の向こう側に結構意図を感じるんですけど?」

そんな感じで質問したら、
面白い返答がありました。

それは、自分が思う理想的な女性像に向かって、
それを触るという行為を繰り返す。
これをやってみた。

ってことです。
だからか!…っとすべてが繋がりました。

女性の身体の形相に手を重ねていく表現は、
女性のフォルムに対しての接触を試みる、
意志ある一手の重なりです。
まずここが起源的なところで、
そこから、理想像を触る手のカタチの繰り返しで、
身体を浮かび上がらせる表現へと変わって行きます。

そして、石膏を使って、自身の手の形状を、
何度も何度も型をとり、
それを積み上げる表現へと変わっていく。

非常に面白いと思いました。

彼の作品の魅力をもう少し、
精神的な意義として言語化すると…

①観えざる美
②仮象の版としての手
③純粋な美の経験化

こんな感じです。

観えざる美

彼の思い描く理想の女性像は、
直接観ることができません。

それは、彼の身体、
つまり手を通りしてしか、
観ることができません。

直視不能な観えざる美。
これは、プラトンのイデアを想起させる、
素晴らしい表現だといえます。

同時に、日本文化である婉曲表現でもあります。

西洋的な文脈で言えば、
プラトニックな身体表現というところでしょう。
クピドーとか、エロースの議論と繋がります。

日本的な文脈で言うなら、慎みの精神や、
本地垂迹思想や密教などに通じる精神にも、
読み込むことができます。

仮象の版としての手

彼が描く不可視の美の手掛かりは、
彼の手という仮象の形象しかありません。

通常、版画というものは、
版の向こう側に作品があります。
しかし、彼の作品ではどこまで行っても、
版しかありません。

版画作品という意味では、
永遠に作品が後退することになります。

どこまで行っても、版しかない。
それは、仮初の形象で、
真の対象はどこまでも覆い隠されていきます。

全面的に主張される”手”は仮象であり、
演技であり、一場面であって、
劇そのものではありません。

逆に言うならば、鑑賞者は、
劇場の観客席に座って、
劇場を眺めることしかできません。

ここでの劇は、
劇場の設備とセットから放たれる、
”激情(理想像)”の雰囲気でしかありません。

仮象の形象を幾重にも重ね合わせ、
真実の美を後退させるその技法は、
ポストモダニズムを思い起こさせ、
けれども、そこに激情という情念を漂わせ、
仮象を仮象のままにしない表現です。

仮象に映す真実の情念という、
幻影をのぞかせることで、
仮象が充満した世界に、
リアリティの手応えをかすかに与え、
救済の裂け目を与える表現だと思います。

 

純粋な美の経験化

理想の女性像という、
純粋なる美のイメージを、
どこまでも後退させる表現ですが、
美の精神そのものは、
手の版の手前側に、
経験的な事柄として、
作家の中では捉えられています。

彼の作品を前にすると、
鑑賞者も同様にその美的経験を、
迫られることになります。

なぜなら、彼が観ているのは、
理想像であって、
手ではないからです。
重ねられた手の印象を前に、
手の向こう側への意識も確実に
意志されます。

一般的に美という事柄を考えると、
理念的で、観念的な美が浮かんでくるのですが、
彼の作品は、作品それ自体が、
版で構成されているので、
版画作品に現れるはずの描かれた対象は、
その作品の内になく、
むしろ、折れかえって、
鑑賞者の側に積極的にそれを構成することを、
要求するのです。
つまり、作品が美の観念的な要素の構成を、
鑑賞者側に要求するのであり、
それは、作品の完成を鑑賞者にゆだね、
同時にそれを経験させることで、
観念的美の経験的獲得を要求することでもある
ということなんですよね。

この辺が僕としては凄い面白いなって
思った点でした。

少ししか話してないけど、
面白い人に出会えてよかったなぁと思いました。

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