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2017-01-21

クラーナハ展 ユディトの魅力 国立西洋美術館

Tetsuです。

国立西洋美術館で行われていた、

クラーナハ展にいってきました。

今回はこちらの展示会で公開されている、

クラーナハの代表作、

《ホルフェルネスの首を持つユディト》の魅力について、

お伝え致したいと思います。

看板になっているのは、その作品の一部です。

ユディトの展示会場で感じた魅力

《ホルフェルネスの首を持つユディト》の物語

これは旧約聖書に入っている、
ユディト記に由来する物語で、
アッシリア軍とユダヤの街の物語です。

その物語によると、
アッシリア軍は自国に反抗的な勢力に向けて、
武力行使に出たとあります。
そのアッシリア軍の指揮を執っていたのが、
ホルフェルネスです。

ユダヤの街は窮地に陥り、
アッシリア軍に対して降伏を決めます。

ここで、追い詰められたユダヤの街に居た女性、
ユディトが立ち上がり、
敵陣であるアッシリア陣営に忍び込み、
隙をみて、敵将のホルフェルネスを打ち取った、
という物語をもとに製作されています。

この物語は、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントという、
キリスト教にまつわる宗教によって、解釈が異なり、
異端として扱われるか、旧約聖書におさめるという仕方で、
現代に残っています。

クラーナハがカトリック教会と、
プロテスタントの革命家ルター、
このどちらともある程度交流があったことからも、
この作品の位置づけは、面白いとも言えます。

宗教的な面には触れませんが、
この作品の魅力を出来るだけわかりやすくお伝えしたいと思います☆

 

ユディトの存在感

シンプルに言って、
僕はこの作品に出会えて、
本当に幸せだと思いました。

 

ユディトが居る会場に入ると、
頬にピリッとした緊張感が走りました。

 

音にするとパシッ!パシッ!という、
凍てつく寒さに感じる凛とした空気です。
その空気を放つ波動の先にユディトを感じました。

 

それを認識した瞬間に、
とっさに「殺(と)られる」

 

こう感じました。
そして、それを覚悟し…

 

一歩一歩と歩み寄るたび、
頬を掠めるしたたかな殺気を感じました。

 

接近すると、
画面内で起きている異常事態に、
衝撃を受けます。

ザックリいうと、

「綺麗なお姉さんが生首と剣を持って当たり前のような顔をしている」

そのインパクトが半端じゃない。

とにかく異常な事しか画面で起こっていない。

この異常な事態をもっと詳しく分析してみました。

ユディトの魅力を分析

僕なりに分析すると大きく2点です。

①とにかく極端な非対称が多い
②炸裂する表現のコントラスト

 

とにかく非対称

まず、顔のパーツ(目、鼻、眉、口)が、
頭の位置から、通常あるべき位置より左下にズレています。

帽子の斜め掛けも同様、
身体の描かれ方も、
あり得ないことが画面では起こっています。

クラーナハの身体の描き込みには、
肩のライン、筋肉でいうと僧帽筋、
この辺りのラインが大きく弧を描いています。

一方、画面左側に至っては、
左肩がほとんど描かれていません。

豊満に描かれた胸部に対して、
左肩があるべき位置に描かれていませんし、
上腕部でさえ明確に描かれていません。
描かれているのは、辛うじて前腕部のみ

胸部より上部はボリュームが多く、
アンダーバスト以下では急激に細く描かれています。

このように、とにかく対称性は敗れ、
非対称が幾重にも重なり、
画面全体で非対称の調和が、
この絵の魅力を引き出しています。

 

炸裂する表現のコントラスト

一番に飛び込んでくるのは、
端麗な顔立ち(ユディト)です。

その顔立ちの次に目に飛び込んでくるのは、
生々しい生首(ホルフェルネス)です。

端麗な顔立ちには、目的を果たし、
喜びを浮かべた表情はなく、
ただ、美しい顔として描かれています。

喜びも興奮も有りません。
非常に冷静で無表情に近いです。

その姿に異界の人というか、
この世のものとは思えない感覚さえします。

 

対して、ホルフェルネスの表情は、
天を仰ぎ、青ざめて、視点の定まらない、
死した身体としての表現が、
リアリティをもって描かれています。

それは、切り口の断面まで、
しっかり描かれており、
その断面がよりホルフェルネスの死を
決定的な出来事として画面上で表現されています。

端麗な美女と死のリアリティという
静的なコントラストが観る者へ、
強烈なインパクトをあたえます。

 

さらに、上記に気付くと、
コントラストがもう一つあることに気が付きます。

その手がかりが、ホルフェルネスの断面です。
綺麗にスパッと切られた首の断面から、
一滴の血も流れていないことに気付きます。

そこに気付くと、ユディトの服の深い赤が、
ホルフェルネスの血を連想させる
死した赤に見えてきます。

クラーナハは、ホルフェルネスの血を、
冷静なユディトに着せることで、
表現したのかもしれません。

 

コントラストはまだまたあります。
細い手首に不釣り合いのしっかりとした手、
その手は、ホルフェルネスの頭を、
微動だにしないほど、
力がこもっているように見えます。

同時に、指には指輪がはめられていて、
当時の女性像の中に納まっている。

 

さらに、ホルフェルネスの首、
この切り口はスパッと切られていて、
鋭利なもので、切られたように描かれています。
それに比べ、描かれた剣は、
ビックリするくらい、なまくらの剣。

クラーナハは、ルクレツィアの自害で
剣を描いていますが、
その剣はとても鋭利で、
簡単に急所に届くような、
描かれ方をしています。

ユディトが持つ剣は、それに比べて、
驚くほどテキトーに描かれている、
むしろ、その剣は象徴的なもので、
機能的な要素は全く感じられない。

飾り気もなく、艶もない、
ただの灰色の棒の様に描かれている。

綺麗な切り口と対照的な切れない剣という、
このコントラストは、画面をパッと見ただけでは、
気付きませんが、この作品の魅力を、
下支えしていると思えます。

以上のようなところが、
炸裂する表現のコントラストと、
表現した事柄です。

 

ユディトの現代における作品の意義

最後に、なぜこの作品が、
2017年現在の私に輝いて見えたのか?

これを考えると、
僕なりの答えは下記になります。

ユディトの魅力を一言で表現するなら、

 

2つの死を1つの画面に閉じ込めた。

 

これにあります。

1つ目の死とは、ホルフェルネスの死です。

生首から与えられる、身体的な死のリアリティは、
観て明らかな死の表現です。

 

もう一1つの死とは、ユディトの死です。

 

ユディトは死んでないじゃん?

 

そう思うかもしれません。
しかし、ユディトは死んでいます。

ユディトの視線は、目的を達成した今も、
その表情を変えず、理性的な眼差しを感じます。

ある意味、極度に理性的なこの眼差しは、
感情の欠落という、ある意味別の、
人間の死を憶えさせます。

 

身体の死と精神の死を
1つの画面上で鑑賞者に突きつける。

 

《ホルフェルネスの首を持つユディト》

 

現代を生きる僕たちにとって、
この作品の一番の魅力は、

 

現代における「生」の問題を、
2つの死を目にすることで、
対照的に目の前にすること、

 

これだと思います。
むしろ、これがあるから、
僕もこの作品を今素晴らしいと、
素直に感じる訳で、
逆に、

 

100年前に観ていて、
それが感じられたかどうか?

 

これは、ちょっと違うような気がします。

作品の素晴らしさ自体は、
それを観る鑑賞者によって、
更新されるべきで、

 

永遠不変の美は存在しない。

 

少なくとも、近代を越えて、
情報の保存も容易になった今、

超大災害で人類が滅亡あるいは、
人類が絶滅の危機に瀕しない限り、

 

これからも存在しないと思います。

 

ですから、僕が書いたことに、
観賞された皆さんがどれだけ同意したとしても、
それは一時的な出来事であって、

 

永遠不変の作品の評価ではない。

 

そして、一つだけずっと変わらないことがあるとすれば、

 

《ホルフェルネスの首を持つユディト》
これを描いた人が居た

 

ということだと思います。

 

作品は生きて、作品の評価は死にゆくもの。

 

これの大切さをこの作品から、
確認することができました。

国立国際美術館 大阪での展示はこれからです!

大阪はこれからです。
関西圏の方、西日本の方は、
是非ユディトの殺気で遊んでみて下さい☆

ここまで、読んで頂いた方。
誠にありがとうございます。
またお疲れ様です。

観られた方も、観られなかった方も、
どちらの方にも、有益な情報であると嬉しいです。

とくに、大阪の方は、これからですので、
是非皆様ご注目頂きたいと思います。

冷静な視線に宿る狡猾な意志を間違いなく感じることができるでしょう

 

それでは今日はこの辺で、

またね☆ミ

Tetsu

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