toggle
2016-11-02

【長文注意!】現代アート理解の下地 人生の軌跡

img_4020

画商Tetsuはこうして生まれた

-もう一つの物語-

画商Tetsuです。

 

今さらですが自己紹介しますね。

 

僕は大阪生まれで小さい頃から、

器械体操をやっていて、

高校には業界で一応名門と呼ばれる高校にスポーツ推薦入学しました。

 

そんな僕は高校二年で転機を迎えます。

身体は中指を複数回骨折、ついでに隣の薬指も同時に骨折。

胸骨も骨折。

体操の世界で戦う自信がなくなりました。

どうしようもない自分にうんざりしました。

 

そこで、僕は逃げたんですね。

目の前の現実から…

そこからです。

もっと過酷だったのは…

 

 

なにせ勉強してきませんでしたから、

何一つ勉強できないんですよ。

 

スポーツ推薦で入学した場合、

部活への参加は絶対です。

体操部のみんながまじめに練習する中で、

僕は体育倉庫に教室の机をもってきて、

受験用の参考書を買ってきてほぼ独学で受験勉強をしました。

 

僕は量子論にもともと興味があったので、

無謀にも物理学部を狙いました。

そのためには、

数学をⅢCまで勉強する必要がありました。

一般の文系であれば数Ⅱ、Bまでやるかどうかです。

 

でも、僕はその選択をしたので、

参考書を先生に

数学を勉強しました。

それから、化学か物理を必ず受験するので、

僕はその時化学を勉強しました。

 

 

全部参考書が先生です。

参考書は教師が教えるように、

こうやるんだよと解法を指示したりしません。

教師から皆さん最初に「やり方」から教わるのですが、

僕の場合は教師がチャート式とかの「参考書」でしたから、

数学の理論的説明からスタートします。

「やり方」は最後に習得できるようになっています。

 

 

結果それが今の自分に生きていますが、

当時は理系科目に費やした時間は測り知れません。

 

 

あと英語も勉強しました。

英語はアルファベットがギリギリ書けるくらいで、

単語なんて読めたもんじゃありませんでした。

Appleなんて読み方わからなかったので、

まず、辞書にある発音記号から勉強しました。

 

当時は、スピードラーニングなんてありませんでしたから(笑)

 

発音記号で音を理解して、

それから単語の勉強と文法をがっちり勉強しました。

でも単語は2万語くらい当時は覚えてたと思います。

文法は、どうせやるならと辞書みたいに厚い本を一冊だけやりました。

後は、とにかく当時のアメリカで流行っていた曲を、

全部和訳する試みを一日1曲とかでやってました。

ただ歌うだけなんですけどね(笑)

毎日の通学は単語の視力検査だけで、

あとは適当にジャパンタイムズとか最後は読んでました。

 

 

一日15時間位ですね。

通学を合わせると18時間勉強してました。

 

 

割合でいうと、英語2:数学5:化学3くらいですね。

 

 

結果は、まぁ全然成績でないです(笑)

一番勉強していない英語が一番成績よかったです。

 

英語 偏差値30→65

数学 偏差値30→45

化学 偏差値30→40

 

こんな感じです。

頭悪いなぁ俺…(笑)

 

で何とか東京の物理学科に入れました。

物理系の人なら、もうどこの大学かわかります。

この学力で入れる大学は日本で一校しかありませんから…

 

大学入学後は、最初の四年間遊んでました。

親にめっちゃ迷惑かけました。

 

まぁ今まで数式の概念理解を大事にしてきた人が、

やり方をたくさん教えられても納得できなくて、

友人同士でこの式憶えればテスト受かるから…

っという発想について行けなかった。

 

 

何もそれじゃ理論のことわかってねぇじゃん?

 

 

そのやり方が自分に合わなかったんだと思います。

1人で勉強してれば、また違ったかもしれませんが、

それはそれで、今の自分にならなかったなぁと思います。

 

 

そんな遊びほうけて他人の金を使いまくってたやつが、

そんなクソ野郎が、目を覚ました出来事がありました。

 

 

それは衝撃でした。

大阪に全くかえってなかった私が、

フラっと大阪に帰りました。

12月でした…

「明日帰る」って家族に伝えてその翌日の昼食事に、

父に一言質問されました。

 

父「明日帰えんやろ?」

僕「うん。そう」

父「…そうか。」

僕「ごちそうさま」

 

僕はリビングのある二階からことども部屋のある三階へ…

ちょうど階段の中腹辺りで父に声をかけられました。

 

父「てっちゃん」

僕「うん?」

父「オトンとオカンは、あんたのやりたいことがあんたにやってほしいことやで」

僕「うん?あぁそうなんや。ありがとう。。。?」

 

こんなこと今まで言われたことがなかったので、

不思議に思いながら帰った記憶があります。

 

その年の年末に母から連絡がありました。

「お父さんが入院したから帰ってきて」

 

もともと父が病弱だったこともあり入院することは、

僕の家族では普通なことでした。

 

大阪に急遽帰省した僕は衝撃を受けました。

 

 

入院ってICUかよ!?って

 

 

年を越した頃、家族はICUで父を取り囲んでいました。

肝臓がんで出血が止められませんでした。

足りない分を輸血しながら、回復を待ちました。

でも、輸血しても出血するだけで、

そこにまともな生命としての循環はありませんでした。

ただ機械的循環だけがあり、失血による痙攣のみが、

生命であることを表現していました。

 

母は見かねて、

 

 

「もういいです!」

 

 

「もう結構です。輸血を止めてください。」

 

 

そう発しました。

 

家族の無言の納得がありました。

 

 

時間が経つにつれ、

心電図の波形は途切れ途切れになっていきました。

 

 

 

波形の波が数分ない状態で、

医師が時間を読み上げその時を告げました。

僕は父の手を握っていました。

そのぬくもりは今もはっきり覚えています。

 

 

その時を告げられた時、

 

 

僕は不思議な感情を浮かべました。

 

 

絶対的感謝

 

 

感謝しかなかったんです。

 

悲しいよりも、喪失よりも、

 

 

感謝しかありませんでした。

 

 

医師がその時を告げた後も、

途切れ途切れに現れる波形は、

僕にとって父からの最後の応答の様に感じました。

 

 

お通夜とお葬式をおこなって、

まず最初に思い浮かべた言葉は父の最後の言葉…

 

 

 

オトンとオカンは、あんたのやりたいことがあんたにやってほしいことやで

 

 

 

これを思い浮べました。

 

あぁ僕は幸せな家庭に育ったな。

同時に俺は何をやっているんだ?

何のために大学に行ったんだ?

 

 

色々自分に言い訳して、

自分が心に決めたことに何の責任も払ってこなかった。

 

 

大馬鹿野郎だ。

クソ野郎だ。

 

 

でも凹んでる時点で父の意に反してる

とも思いました。

 

 

とりあえず、最愛の人を失った母を支えようと

3カ月は実家で生活しました。

 

 

そんな中何か耳かきかなんかを探しているときに、

その昔、小学生の頃父と一緒に作った小箱の引き出しに、

ある写真が入っていました。

 

 

 

それは、履歴書用の証明写真でした。

 

 

 

 

衝撃でした。

 

 

もう死を意識する健康状態で、
オトンは僕のために働こうとしてくれていた。

 

 

僕は、自分が大っ嫌いになりました。

 

 

このクソ野郎をどうしてやろうか?

そんなことを思いました。

そして、決断しました。

 

 

 

大学卒業する!

 

 

 

やるならとことんやりぬくと決めました。

 

 

そうして、学科を言語学系の学科に転部転科して、

改めて大学生活がスタートしました。
毎日9:00~21:00で授業以外は図書館にこもり、

理論書読み、学習して、その後家でも本を読み、

平均18時間勉強してました。

 

 

そんな日々の中、ある人物と出会いました。

その人は、生きる図書館のような人でした。

 

 

その人は現代思想の専門家でかつ同様に思想史の専門家でした。

文化論や芸術論、時代の空気感など、

何を聴いても答えが返ってきます。

自分にとって師匠のような存在です。

 

 

僕の感性に本物の知識が、

少しづつ重ねられていきました。

 

 

哲学は、自分との格闘でした。

1人1人異なる考え方をそのまま聴いてあげて、

そのまま理解する。

たった一行の文に全神経を研ぎ澄ませて観る。

 

 

この時僕は気づいていなかったのですが、

僕には他の人と違う文章の読み方をしていました。

 

 

 

僕は、文章が読めない。

 

 

 

これが正確な言い方です。

文章は、どれだけ複雑で抽象的であっても、

文章は観えること。

 

 

 

哲学書であろうと僕には文章が観える。

イメージとして観える。

 

 

ある時には平面的な図として、

ある時には立体的構造として、

またある時には運動する流れのように、

文章が観えます。

 

 

文章が観えたらその各部分に名前を与えて、

最後に整理します。

こうして知識をどんどんイメージとして折りたたんで、

引き出しにしまっていきました。

 

 

 

哲学の文章は非常に発見的で、

今まで観えていなかった世界をみせてくれます。

それを表現するなら…

 

 

今のこの世界を同時に全く違った仕方で観る

 

 

ということです。

 

それがわかったときは、

自分の観える視界のずっと奥の方で、

光がパッとつく感じです。

 

 

突然の衝撃に戸惑いながらも、

その突然の出来事は、自分の観えるものすべてを、

すっかり全く別のものに変えていました。

 

 

 

こうして、その感動がたまらなくて、

もっともっと勉強しました。

 

 

でも、これが自分だけのものだと、

理解するときが来ました。

 

 

それが同様に、その師匠の魅力に影響された、

仲間たちとの出会いでした。

 

 

彼らと話をするたび、

彼らに僕の観えた世界を説明するたび、

僕の世界観は伝わりませんでした。

 

1人師匠だけが、僕の観える世界を理解し、

そして、注釈と解説を行ってくれました。

 

 

今でもその仲間や、師匠とは繋がっています。

 

 

こうして、大学生活は理解し合える環境がそろったこともあり、

順風満帆で成績優秀で順調でした。

 

 

しかし、大学4年リーマンショックの直後の年、

大学8年生には厳しすぎる就職活動でした。

 

 

僕が勉強してきた知識は、

世界の観方をすっかり変える。

ただそれだけの知識で、

社会で生きていくうえで必要な知識は、

全く暗闇の内にありました。

 

 

本当に辛かったなぁっと今でも思います。

 

 

でも、そんな自分を拾ってくれた会社がありました。

それが、住宅建材の卸売りをしていた会社でした。

本当にありがたいことでした。

今でも本当にそう思っています。

 

 

組織の中で生きる難しさも知りました。

これは、もっとこういう風にやればうまくいく!

 

 

そうやって思いついても、

既存の組織の在り方が先にあって、

社内の政治的な理由で、

アイデアは通りませんでした。

 

 

会社の経営も不振。

見かねて僕は転職しました。

 

 

次に入ったのはオフィスデザインの会社です。

オフィスデザインの現場は、

非常に過酷です。

コンペが必ずと言っていいほどにあり、

それに勝ち残らなければ、全てゴミ箱いきです。

 

 

その代わり、勝ち取れた時は形に残るので、

非常にやりがいのある仕事です。

楽しい職場、会社も大好きで、

一生懸命働きました。

 

 

でも、僕には逆に難しすぎたかもしれません。

…というより、

完璧な提案を行うには、

会社のフォーマットが自分に合わなかった。
でも守破離だと思ってずっと取り組みました。

 

 

それはある意味我慢です。

めちゃくちゃ我慢です。

 

 

自分のココロの声を押し殺し、

相手のやり方にすべて合してやりました。

 

 

結果、容量が悪くうまくいきませんでした。

何をやるにも人よりずっと多く時間がかかりました。

 

 

でも仕事は楽しんでやっていました。

最後は、一生懸命働き過ぎて、

身体が付いてきませんでした。

 

 

おかしいと思って病院に行きました。

 

 

そして診断は…

 

 

 

うつ病でした

精神障害者としての認定もされました

 

 

 

楽しく仕事していたのに、

会社に行きたいと思っているのに、

 

 

それでもいうことをきいてくれない、

身体と気持ち。

もちろん休職しました。

 

 

意志とこころと身体が全部バラバラになりました。

 

 

ある意味、僕はそれが経験出来てよかった!

この感覚が超ぉ~面白い!っておもいました。

 

 

しかし、一方で社会的まなざしや、

自立できない生活には本当に嫌気がさしました

 

 

 

闘病生活の最初は、本当につらく過酷なものでした。

 

 

でも少しづつ、回復してきた頃に一つ気づきがありました。

 

 

それは英語を話しているときは、症状が楽になる。

英語はそれほど流暢に話せるほどではありませんでしたが、

それでも、僕が言いたいことを伝えられたし、

考えることもできました。

それは、イングリッシュカフェに行ってみて気づいたことでもあります。

 

 

そんな中、メキシコ人の友達ができました。

インテリアデザインという共通項で急速に打ち解け合いました。

 

 

そんな中、彼からの提案で、

資生堂ギャラリーに行こうと誘われました。

その時、資生堂ギャラリーでは、

石内都さんのフリーダ・カーロさん作品の写真展

 

フリーダ・カーロさんはメキシコ人アーティストで、

石内さんは写真家でフリーダさんの作品を撮った人です。

 

 

メキシコ人の友達は、僕に作品の説明をしてくれたり、

展示会場の壁面の色がメキシコではポピュラーな色彩だと

教えてくれたり、自分の庭のように歩いていました。

 

 

それが僕の初めてのギャラリー体験でした。

その後も一緒にギャラリーの展示会に行ったり、

そこで観た作品の意見交換をしたりしました。

 

 

その時、ギャラリーってこういうとこなんだな

 

 

って教えてもらった気がしました。

それと同時に、

 

 

アート≠デザイン

 

 

これを言葉にせずとも気づかせてくれました。

アートを観る文化を彼から僕は学びました。

本人は別にそんなこと思ってないでしょうけれど…

 

 

それからは、一人で銀座のギャラリーに、

毎日のように通いました。

銀座だけでなく六本木や両国など…

とにかく行きまくりました。

 

 

そこで、多くの作家さんと作品に出会いました。

 

 

その中で、自分の観る力を鍛えました。

観る力とは、作家に作品中で出会う力です。

 

 

それを短期間で磨いていると、

急速にアーティストの方が僕を認めてくれるようになりました。

ギャラリストさんも僕の意見に同調してくださる方も増えました。

 

 

そしてついにある作家さん…

いや作品に出会います。

 

 

 

とあるグループ展に行った時です。

その出会いは衝撃的でした。

幾つも作品が展示されている中で、

別次元の存在感を出す作品に出会いました。

 

 

直観しました。

いま世界で最高レベルの表現だと…

確実にこの作品は世界で絶対的な地位を占める作品だと…

次元が違う。

この言葉が本当に似合う。

 

 

そう思って観ていたら、

作家さんが声をかけてくださいました。

 

 

僕は、その感動を言葉でできる限り伝えました。

 

 

作家さんは、僕の観た感想を聴いて、

完全に意気投合しました。

話して気づいたことは、

 

 

僕≒作品

∴僕≒その作家さん

 

 

自分が世界最高とは思いません。

ただ作品の表現は大変素晴らしいと思います。

 

 

どのようにそれを出すか?

僕の中にあるイメージがそのまま現れ出た感じでした。

 

 

その作家さんにまた作家さんを紹介頂いて、

作家さんとのつながりもできました。

 

 

同時に作家さんの壮絶な舞台裏も知りました。

作品が全然見られることなくそのままお蔵入り…

 

 

 

作品がかわいそうだと思いました。

作品をもっと見せてあげたい!

作品をもっと日に当たる形でしまってあげたい!

作品の魅力をもっと伝えてあげられる人を増やしたい!

それが作家の生活を支えることになるような、

環境を作ってあげたい!

創ることに専念し、魅せることに力を注がせない。

そういう環境を用意してあげたい!

 

 

それをいつからかわかりませんが、

言葉にするようになっていました。

「変える仕組みを作ってあげたい!」

そう伝えることを始めていました。

 

 

その言葉に責任を持つために、

僕は画商になることを決意しました。

そうやって決意をした姿が今の僕です。

 

 

その決意をした時に、一つ決めたことがありました。

それが、

 

 

全身全霊で作品と向き合い

作品の中で作家と出会うこと。

それができるまで向き合い続けること。

それをあきらめないこと

 

 

こうして画商Tetsuは誕生しました。

 

 

美術の知識なんてほとんどありません。

でも、これから勉強します。

 

 

美術に理解がなくても、

現代に生きる作家のアートは理解できる。

これは、多分間違いないです。

それと…

 

 

僕は現代ということがどういうことであるか?

 

 

これに関しては、ある程度素養があります。

 

また僕には生きる図書館の師匠が居ます。

師匠とは最近僕の観る力を利用しながら、

知識のイメージ化をやっていて、

1つのまとまった文章を読んで、

ホワイトボードに書いてあることを図示したり、

そこに自分のヴィジョンを上乗せして、

一枚のホワイトボードに知識の可視化をしています。

 

 

そうすることで、お互いが自分の考えたことを

1つの共通理解として残しています。

 

 

意見交換や情報更新も行います。

美術の知識なんて、師匠からしたら部分的なものなので、

良書を読み勉強したいと思います。

 

 

またそれとは別に、

日本の文化ということを、

意識するようになりました。

 

 

日本人とは誰のことか?

日本文化とはどのようなことなのか?

 

 

これは、国際化が進む浅草に触れたことも大きいと思います。

 

 

最近浅草の歴史を探求することが、

日本文化を理解するうえで、

物凄く優れていることだと思いました。

 

 

今後もその歴史について、

しっかり追求していきたいと思っています。

 

 

ここまで読んでくださった皆さん。

お疲れ様です。

僕の人生はまだまだ始まったばかりです。

役に立たない知識と経験を役に立たせる場所を得ました。

 

 

アーティストのためにも、

それからアートを楽しみたいと思っている皆さんにも

有益であるような自分を目指し、

頑張っていきます。

 

 

僕はみんなを応援するので、

共感したら僕を応援してください。

 

よろしくお願いします!

 

またね☆ミ

Tetsu

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です